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第9課 安河内アキラ

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2016年 第1期 反逆と贖い
第9課 大争闘と初代教会

今週の聖句 使徒言行録1:6~8、2:5~12、創世記11:1~9、使徒言行録4:1~30、7:54、10:12~29

今週の研究 イエスが御自分の弟子たちに関して直面された最大の問題は、彼らが抱いている偏見でした。弟子たちは、自分たちが抱くイエスの将来像とイエスのおっしゃることが一致しないと、ほとんどその言葉に注目しませんでした。イエスが昇天なさるときに至っても、彼らはまだ、イスラエルがローマ人から解放されることについて質問しています。
この支配的な先入観がようやく真理に置き換わり始め、弟子たちが神のおっしゃることを聞けるようになったのは、祈りと、神の御臨在のもとでの親しい交わりによって過ごした、わずか10日後のことでした。このことが、イエスの死後最初の五旬祭における信じがたい出来事への道を開きました。
それゆえ、私たちは今週の研究において、大争闘という主題がさまざまな形で展開されているのを見ます。権力者たちがサタンにそそのかされて真理を抑圧するように、その争いがあからさまになされているのを見るでしょう。しかしまた、その争いが、ずっとわかりにくいけれど、もっと重要な場所―人の心の中―で展開されるのも目にします。

日曜日:復活されたのち、イエスは40日間を用いて弟子たちと会い、復活を裏づけ、彼らが神の国をもっとよく理解できるように手助けなさいました(使徒1:3、Ⅰコリ15:4~7)。しかし、イエスが天に旅立たれる直前に弟子たちが集まったときでさえ、彼らの心の中で最も重要だったのは、イエスがローマ人をついに征服されるのはこの時か否か、ということでした(使徒1:6)。
弟子たちはこれから起こることに対する思い込みが激しかったために、イエスが彼らに語っておられたことに耳を傾けませんでした。3年半にわたって、歴史上最高の教師から(大学の学位に匹敵する)きめ細やかな教えを受けたあとにもかかわらず、弟子たちは捨て去る必要のある多くの誤った認識をいまだに持っていました。
使徒言行録1:6~8を読んでください。イエスは弟子たちの誤解を正すために時間を浪費する代わりに、真の問題に目を向けられました。聖霊によって力を授けることのほうが、政治的議論よりもはるかに重要でした。
11人の弟子たちは、オリーブ山からエルサレムに戻りました。彼らの頭は思い出にあふれ返り、彼らの心はイエスによって明らかにされた真理(少なくとも、彼らが理解していた真理)で輝いていました。しかし、彼らにはそれ以上のものが必要でした。イエスは弟子たちに、聖霊がバプテスマを授けてくださるのをしばらく待ちなさい、とおっしゃいました(使徒1:4、5)。なぜなら、敵はすでに敗れてはいましたが、まだそれを認めておらず、弟子たちはイエスから命じられていたことを行うために、上からの力を必要としたからです。
月曜日:洪水のあとしばらくして、地上の住民たちは天まで届く塔を建てることにしました(創11:1~9)。彼らがたくらんでいた新たな悪事だけでなく(同11:5、6)、このような傲慢で愚かな努力をさせないために、神は彼らの共通の言葉を混乱させ、彼らを「全地に」(同11:7~9)散らされました。
五旬祭において、神は正反対のことをなさいました。ここで彼がご覧になったのは、新しいバベルの塔を建てる人々の集団ではなく、いつの日か悪は取り除かれるという福音を宣べ伝える準備のできている人々でした。
その日、エルサレムには「天下のあらゆる国から」(使徒2:5、バベルの塔で散らされたことと比較)来た人々がおり、彼らは、使徒たちが彼らの故郷の言葉を話すのを聞いて驚き、集まって来ました(同2:6~11)。
ペトロはこの機会を利用して彼らに説教をします。彼は、神に会う備えを人々にさせる聖霊の降り注ぎについて語りました(使徒2:17~21)。彼はメシアの真の使命を指摘し、彼らがメシアを十字架につけたことを非難します(同2:23)。人々は「大いに心を打たれ」(同2:37)、3000人がバプテスマを受けて弟子たちに加わりました(同2:41)。

木曜日:弟子たちは、イエスが彼らに教えられたことを理解しにくくさせた先入観と格闘するだけでなく、民族的な偏見も共有していました。このような偏見の一例が、1杯の水をイエスから求められたサマリアの女の物語です。弟子たちは、イエスがその女性にさえ話しかけられたことに驚きました(ヨハネ4:27)。
民族的な偏見は、カエサリアに駐屯するローマの百人隊長コルネリウスの記事の中でも表面化しています。コルネリウスは「信仰心あつく……神を畏れ」(使徒10:2)、地元の住民から高く評価されていました(同10:22)。そして、天使が彼に、人を送ってヤッファにいるペトロを招きなさい、と命じました(同3~8節参照)。
ペトロは、今なお私たちが学ぶ必要のある一つの教訓を学びつつありました。キリストによってすべての壁は壊され、ユダヤ人と異邦人の区別も、あらゆる人の区別も、もはや存在しません。「どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです」(使徒10:35)。

キリストが昇天される時に「全世界に出って行って福音を伝えよ」と命じて行かれました。それまでユダヤの宗教だったユダヤ教がキリストを救い主として受け入れて全世界へ出て行こうとした時に、大きな問題となったのは文化をいかに受け入れて、その土地の文化に適応して行くかでした。教会が地域の教会から世界の教会となるためには、この問題は避けて通れませんでした。そして同じ問題は、今日も全世界で教会が新しい世界へ福音を伝える場合は、必ずこの問題が生じてきます。
わたしも牧師としていくつかの教会を回りました。そこで地域差が出るのは葬儀でしたね。例えばある地域では、参列者が全員火葬場まで行くんです。火葬場の待合室の広さが大きな教室くらいでした。また他の地域では、納骨の際に骨壺には入れず、土に帰していました。どのやり方が正しいとか聖書に従っているという答えは見つけることができません。その地域がそのようにやってきたことを受け入れるしかありません。
教会が世界へ広がって行く中で、このような問題が生じてきたので開かれた会議がエルサレム会議でした。(使徒15章参照) そこで「偶像に供えられた汚れた肉、みだらな行い、絞め殺した動物の肉と地を避けるように」 それ以外のユダヤ人の習慣を押し付けないように決議しています。日曜日の学びで先入観について教えていますが、わたしたちが自分たちの思いだけで何かを語ろうとすると、同じようなまちがいを犯すのではないでしょうか。
先日、コミュニケーションについての講習で、人の話しを聞いている時でも、聞きながら一瞬でも他のことを考えたりすると、その瞬間は相手のことを聞いていないのです。しっかり聞いていたつもりでも欠落してしまうのは、このような時なのです。自分はしっかり聞いている、わかっていると思っていると、相手の言葉を聞くことができないのではないでしょうか。聖書が謙虚であれと教えているのも、このあたりを教えようとしているのかもしれませんね。