PDFダウンロード |
2012年 第1期 私たちの神
第5課 神は聖なる方
聴覚しょうがい者用:磯部豊喜
1.はじめに
今期のSS聖書研究ガイドの総題(そうだい)は、「私たちの神」です。私たちはこの13週の間に、この壮(そう)大(だい)なテーマを学んでいます。「私たちの神」はどんなお方なのでしょうか。あなたは、もし誰かが「あなたの信じる神様はどんな方ですか?」と尋(たず)ねられたならば何とお答えになられるでしょうか。聖書から神様とそうでないものを区別するいくつかの特別な性質があります。第一に神は永遠の(始まりも終りもない)お方です。第二に神は全能(ぜんのう)(なんでも出来ないことはない)です。第三に神は全知(ぜんち)(なんでも知っている)、第四に神は遍在(へんざい)(どこにでもおられる)、そして第五に神は不変(ふへん)(心がころころと変わることはない)であると紹介することが出来るでしょう。しかし、神様を誰かに紹介するときに、何よりも魅力的(みりょくてき)なのはその道徳性(どうとくせい)です。「愛、義、聖」がそれです。神様と言えば「愛」です。また「義」です。そして「聖」です。今週は、この「聖なる方」について深く学ぶことになります。
2.「・・・・・と書いてある」 1月29日(日曜日)
聖書の世界に触(ふ)れていきますと、まず出会う言葉、その一つが「聖」という言葉でしょう。まず私たちが手にとっている本の名からしてそうです。「聖書」「聖徒(せいと)」「聖(せい)都(と)エルサレム」「聖(せい)日(じつ)」…と続きます。「聖書」は英語では「ホーリー(聖)バイブル(書物)」と呼ばれます。つまり「聖なる本」という意味です。「聖」がつくことによって聖書と他の本の違いが表(あらわ)されているのです。
神の子イエス様は、旧約聖書を用いられましたが、旧約聖書の言葉が「聖なる神様の言葉である」ことを、その信仰によって証(あか)しされました。「(聖書に)…と書いてある」「聖書には何と書いてあるか、あなたはどう読むか」という言葉をお語りになられて、当(あ)たり前のように「聖書」が神様のものであると表明(ひょうめい)されました。このような「聖書」だとするならば、私たちはもっともっと聖書を大事(だいじ)にする必要があると思います。私は「聖書」の上に物を置かない習慣(しゅうかん)があります。しかしそういうことよりも大切なことは、聖書の言葉に触(ふ)れ続けることではないかと思います。「聖書は聖なる神様の本」だからといって本棚にいつまでも飾(かざ)っておくものではありません。積(つん)読(どく)聖書だとか、パンフークリスチャンだとかいう言葉があります。積讀(つんどく)は聖書を大切に本棚に保管して読まないことを指(さ)します。またパンフークリスチャンは、久しぶりに開いて聖書をパンと閉じたら、長いこと読んでなかった証として埃(ほこり)が舞うので、「フー」と吹くクリスチャンのことを指します。あなたの聖書は、どのように扱われているでしょうか。
3.区別(くべつ)されること 1月30日(月曜日)
聖書の中で、はじめて「聖」の言葉がでてくるところを注意して見てみましょう。それは創世記2:3にそれがでてきます。「【新共同訳】この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。」【口語訳】神はその第七日を祝福して、これを聖別された。神がこの日に、そのすべての創造のわざを終って休まれたからである。」と記(しる)された聖句が「聖」がでてくる最初です。第七日安息日が「聖別」された日と呼ばれています。
ここで分かる事は、神様はこの日を他の日と明らかに区別されたということです。私たちセブンスデー・アドベンチストの大切にしている安息日を守る根拠(こんきょ)(よりどころ)がこの聖句に見られます。安息日は「聖(せい)日(じつ)」(イザヤ58:13)です。すなわち、神様が特別に区別された日です。とはいうものの本来(ほんらい)、私たちの神様はすべての日のつくり主(ぬし)です。ですから毎日、神様を礼拝し、神様とお交わりすることは可能です。しかし安息日という聖日は、特別です。たとえとしてふさわしいかどうか分かりませんが、週の6日間、私たちは生活のためにいろいろなことをしなければならないので時間をかけて神様と深く交われません。しかし、安息日だけはイエス様ご自身が第7日目の24時間に限(かぎ)り「私とタップリとデートしましょう」と区別してくださっているという、そのように神様が約束しておられる、これが安息日だと意識(いしき)することです。そうであれば、安息日を忘れて、デートをすっぽかすのは勿体(もったい)ないし、イエス様に待ちぼうけをさせてしまうと、申し訳ないことになってしまいます。「聖」は「区別」されることです。神様がそのように「宣言(せんげん)」されたのです。「聖」がつくことによってそれは、どんなものも特別なものになります。クリスチャンも「聖徒(せいと)」だと聖書では表現されています。これも「神様のために区別された徒(と)(弟子)」となります。とても身が引き締(し)まる思いがしますね。さほど清(きよ)らかで完全な者でもないのに、神様は「聖徒」と私たちを呼んでくださるのです。ありがたいことです。
4.塵(ちり)と灰の中で悔(く)い改める 1月31日(火曜日)
「聖」なる神様に、触(ふ)れると人はどうなるでしょうか。その経験が、このところにまとめられています。ヨブの場合「それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し/自分を退(しりぞ)け、悔い改めます。」(ヨブ42:6)、ヤコブの場合「そして、恐れおののいて言った。「ここは、なんと畏(おそ)れ多い場所だろう。これはまさしく神の家である。そうだ、ここは天の門だ。」(創28:17)、ダニエルの場合「わたしはひとり残ってその壮大(そうだい)な幻(まぼろし)を眺(なが)めていたが、力が抜けていき、姿は変わり果てて打ちのめされ、気力(きりょく)を失ってしまった。」(ダニエル10:8)と語っています。彼らのように悔い改めた罪人は、神様の「聖」を前にすると、恐れ、震(ふる)え、ひれ伏すのです。
5.私から離れてください! 2月1日(水曜日)
ペテロがイエス様の「聖」に触(ふ)れたときの様子(ようす)がここに記されています。彼も「これを見たシモン・ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」(ルカ5:8)と言いました。罪人は神様の前に平静(へいせい)で立つことの出来る人は恐らくいないでしょう。しかしそれでも私たちは、畏(おそ)れつつも神様のみ前に立つことが許されます。罪人にとって「聖」なる神様は、本来(ほんらい)怖(こわ)いものですが、その罪深い私たちが恐れが取り除かれて、「聖」なる神様の前に立たせていただけるのが神の恵みです。
6.悪霊が話すとき 2月2日(木曜日)
ルカ4:31~36には、悪霊につかれた人が、キリストに出会ったときに話した言葉が記(しる)されています。「ああ、ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅(ほろ)ぼしに来たのか。正体(しょうたい)は分かっている。神の聖者(せいじゃ)だ」(ルカ4:34)。この言葉によれば、悪霊もイエス様がどんなお方なのか分かっているようです。では悪霊とクリスチャンの違いは何でしょうか。ヤコブの手紙には「悪霊どもでさえ、信じておののいている」(ヤコブ2:19)とあります。悪霊はイエス様が「聖」なる方であることを認めていますが礼拝しない。しかしクリスチャンは神様の「聖」を認め、畏(おそ)れつつも、神様に近づき、聖なる神様を讃(たた)えて、心から礼拝するのです。
