『そこが知りたいSDA 57のQ&A』の追加資料
−−宗教改革以降から現代に至るまでの「条件的不死」を支持する神学者、教会指導者たち
>>PDF版のダウンロード
※本文書は、2007年1月福音社発行の『そこが知りたいSDA 57のQ&A』の追加資料です。
本書とあわせてお使い下さいますようお願いいたします。>>本についてのお問い合わせ
17世紀
O・クロムエルのラテン語秘書官を務めた偉大な宗教詩人ジョン・ミルトンは、キリストの来臨と復活までの間、人は死において完全な無意識の眠りに入るのであると教えました。カンタベリー大主教ジョン・ティロトソンもその著作集の中で、「わたしは、魂の不死の教えが明白に述べられているのを、聖書のどこにも見いださない。それなのに、それは、当然のこととされているのである」(1 巻749 ページ)と述べています。
18世紀
科学者であり、哲学者でもあったジョセフ・プリーストリ博士は、『物質と精神に関する論考』『死人の状態に関する見解の歴史』などを著しましたが、「死における魂の状態」は肉体が死後、存続はしていても、実際は動かなくて死んでいるのと同じように、全く無意識の状態なのだと主張しています。
セント・ピター学寮長で、カーライルの主教でもあったエドモンド・ローは、『宗教の学説に関する考察』『死人の状態』などを著しましたが、有意識的中間状態(死後魂は天国または地獄に行って終末の日を待つ状態)の教理に異議を挟み、死を、眠り、すべての命、思考、行動の終止、休息、沈黙、忘却の状態であるとしました。ケンブリッジ・マグダレン学寮教師であり、ペーターバラの主任司祭であったピーター・ピカールは、『死と復活の間の中間状態の教理に関する考察』などを記しましたが、「不死は本性的なものではなく、キリストを通して与えられる賜物である」と主張しています。英国ランカシャーの非国教徒であったサムエル・ホーンは『死後の刑罰についての教理』を書きましたが、「救い難い悪人のためには、完全な滅亡、絶滅、存在の停止」があることを主張しました。
バプテストの神学者、ケンブリッジ大学数学教授であったW・ウイストンは『地獄の責め苦の永遠性の考察』を著し、永遠に続く責め苦という教えを否定し、個人は完全に滅亡すると考えました。博識のドッドウェルと呼ばれたオックフォード大学の古典学者のヘンリー・ドッドウェル教授は、魂の不死に関する書簡体論説の中で、魂は本性的に可死的なものであり、神のよしとされるところに従って実際に不死とされることを聖書と初代教父から立証しています。
19世紀
19世紀には、条件的不死説の立場に立つ解釈者が増え、この説の大いなる復興がみられたのに加え、いろいろな会議が開かれました。1876年5月に開かれた条件的不死説ロンドン会議では、会衆連合の総理エドワード・ホワイト博士、ミルトンなど著名な支持者が多く参加していますが、報告書の要旨は次のようなものでした。「聖書はどこにも生得的不死を教えていない。そうではなく、不死を与えることが贖罪の目的であると教える。‥‥その分与は、人の聖霊による新生と死人の復活が必要とされる」(2 8 ページ)。報告はまた、不死を楽しむことは条件的であること、そして、神に立ち返ろうとしない者は死に、永遠に滅び失せるのであると宣言しています。この会議でも指導的な役割をになったホワイト博士はその中で次のように言明しています。「このような考えは、今朝われわれを一致させた見解である。この見解は今や、あらゆる国々の考え深い人々に固く支持されている。ここに集まったものは小さい群に過ぎないかも知れないが、われわれは、ヨーロッパとアメリカにおける大きな軍勢を代表するものである。この考えは毎日、諸教会の間に広がりつつある。支持者たちの中には幾人かの一流の科学者、神学者、宣教師、言語学者、哲学者、説教家、政治家の各氏たちを挙げることができる」(28,29 ページ)。
またホワイト博士は、「わたしは、この問題についての40年間の研究の結果、アメリカのインガソル、イングランドのブラッドラフ両講座(教派を問わず、教職、教会員の別なく講師を選んでなされている魂の不死に関する特別講座)にわずかの足場を与えているものは、絶対的に永遠に続く肉体と魂の苦しみ、刑罰という概念にすぎないことを、固く主張するものである。わたしは、かつてないほどはっきりとそれが、人間性のあらゆる道徳感覚に逆らうものであるように、聖書の全ページ全行にも逆らうものであると信じている」(『言い尽くせない賜物』2 2 ページ、1884 年)と述べただけでなく、翌年次のようにつけ加えています。「旧約聖書は、神の僕は永遠の命を得、悪人は滅びを受けるという信仰に終始貫かれている。そしてそれは、何か別の観念を付け加えずに、単純なそれ自体の意味にとる時、そのようなことが言えるのである。同様の一貫性を持って、福音書と書簡は、救われない人たちの運命について、それ自体の単純な意味にとるならば、旧約聖書が教えるような意味にとれる言葉を、ほとんど一様に使っている。即ち、彼らは死ぬ、滅びる、滅亡する、命を見ない、そして、滅亡、永遠の滅亡、それもキリストが言われる『ゲヘナでのすべての肉体と魂の滅亡』を受けるのである」(『月間説教』1885 年)。
イングランド・ウェールズ会衆派連合総理で、1891年開催第1回会衆派国際会議の議長を務めたロバート・デール博士は会衆派連合に、条件的不死説の受容を印刷物を通し発表している。「永遠の命は、わたしの信じるところでは、キリストにある者の受け継ぐものである。彼の内にいない者は第2の死を受け、それからの復活はもはやないであろう。‥‥わたしは、『条件的不死の見解』が、わたしの教えの中で、キリスト教信仰の偉大な中心的教理の権威を弱めるようなことをしたとは少しも思わない。三位一体の教理は触れられることなく残っているし、受肉の教理、福音的な意味における贖罪の教理、また、信仰による義認の教理、行為による裁きの教理、新生の教理は、どれもこの結論から新しいより強力な説明を受けたのだと信じる」
カンタベリーの首席司祭で『永遠の希望』『あわれみと審判』の著者でもあるフレデリック・ファーラーは「終わりのない、意識を伴った苦しみという教義を否定し、永遠の責め苦についての一般の見解を支持する聖句は、全聖書の中に、それを正しく解釈するならば、一つも見いだすことはできない」と述べています。ケーニヒスベルグ大学神学教授のH・オルスハウゼンは、新約聖書注解の中で、「魂の不死という教理と、そのような言葉はどちらも、聖書全体と通じてどこにもないものである」(4 巻381 ページ)と言っています。
イギリスの首相も務めた神学者ウィリアム・グラッドストーンは、バトラー主教の本性的不死の立場を批判して次のように主張しています。「われわれは、キリスト教の不死とは対立する本性的不死の考えが、キリスト教会の中で強固な足場を得はじめたのは、オリゲネスの時代からに過ぎないとみなすべきである。本性的な、キリスト教的なものとは区別される不死の教えは、広い公共性と徹底的な論争の厳格なテストに会ったことがなく、教会の中に、言わば裏口から、沈黙の内に、しかし、効果的な方法で、忍び込んできたものである。そしてそれは、暗黙の時効によって権利を獲得しつつある。
最も重要な一つの考察は、魂の本性的不死の教えは、聖書には全く関係のないものであって、それは、無邪気に支持されていても、容易ならぬ、ゆゆしい問題として論争されている哲学的見解以上の立場に立つものではないということである。人間の裁きの標準では、刑罰というものは、それがどんなものであっても、決して終わりがないものであってはならないということが定められ、認められているので、そのような刑罰は十分であるとされる。そうであるのに、神の定めにあっては決して終わることのない刑罰が科せられるというのであれば、そのような考えがある限り、全能者の品性は、弁護不可能な告訴を免れないのである」
ロンドンのシティ・テンプルの牧師ジョセフ・パーカーは、その著『民衆の聖書』の中で、宇宙からの終局的な罪の追放について論じて、「罪を滅ぼすということの意味は、悪が完全に、終局的に、永遠に絶滅して、宇宙が、『しみもしわもそのたぐいのものが一切ない』ものとなり、清い被造物の住む清い住み家となることである」(160 ページ)と言っています。また彼は「ソドムの永遠の火の刑罰」について次のように解釈しています。「ソドムの場合に終局的な永遠の滅亡の実例が見られる。なぜなら、新約聖書の中に、『ソドムは永遠の火の刑罰を受け』たと語られているが、それは火の刑罰であって、その火は、ソドムに終局的終わりを来たらせ、完全に神の御目的を遂行したのであった。その『火』は『永遠』であったが、ソドムは今なお文字通り燃え続けているわけではない。その苦しみの煙は、永遠の火の煙であったから、世々にたちのぼった。しかし現在、あの平地から煙は上がっていない。『永遠の火』は、われわれが『時』と呼ぶものの要素を含んでいるのではない。それは、全き、絶対的な、完全な、終局的な火という意味であって、ただ一回限りなされ、あるいは、与えられるものをいうのである」(223 ページ)
『新約聖書現代訳』の訳者であるウェイマス博士は、「滅ぼす、あるいは滅びを意味する、ギリシャ語の最も強い五つか六つの言葉が、永遠に続く悲惨な存在を意味するものであると説明される時ほど、ひどい言葉の誤訳であると感じざるを得ない」と述べています。彼はコリント1 5:1 8 の復活がないなら、「キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのです」という聖句について、「『滅ぶ』という言葉で使徒は明らかに、『存在しなくなる』ことを意味している」と解釈しています。
『クリスチャン・ユニオン』や『アウトルック』の編集者であるL・アボット博士は、『かの知られざる国』論文集の中で、「不死はただ、霊的な命に属しており、ただ神との交わりと接触のうちにのみ可能であること、また、要するに、不死は、創造に際して、ある特定の種族に、望もうと望むまいと付与されたものではなく、贖罪において、ある種族、即ちイエス・キリストを通しての命と不死を選ぶ種族の者たちに与えられるものであるという確信がそれである」と述べています。
イリノイ・カレッジ学長、エドワード・ビーチャー博士はその著『懲罰の聖書的教理』の中で「、聖書は、魂の本性的、生得的な不死を認めない。否、それを明白に否定する。聖書は、 神のみ、不死を持ちたもうことを確言する(Iテモテ6:1 6)。この言葉により神は最も高い意味において、不死、即ち、生得的不死をお持ちになることを、われわれは理解する。神は、ご自身を除くすべての存在を創造し、支えられる。人間は、プラトンが教えるように、自存のもの、永遠な存在、本性において不可死的な存在なのではない。そのような魂の生得的な不死はないのである。神は、ご自分が創造されたものを、み心に従って、存続させることも、また、絶滅させることもおできになるのである」(5 8 ページ)と明確に述べています。
フィラデルフィア第一バプテスト教会牧師であり、ペンシルバニア大学でキリスト教倫理学を講じたジョージ・ボードマン博士は、その著『創造週の研究』の中で、次のように論じています。「聖書には、創世記から黙示録まで、わたしの知る限り、たった1行でも、人間の本性的不死を教えている箇所はない。反対に聖書は、神のみが不死を持つことを断固として宣言している(Iテモテ6:1 6)。即ち、神おひとりが本性的に、生得的に、ご自身の本質において、本性において、不死でいたもうのである。もし人が不死であるとするのなら、それは、不死が人に付与されたからである。人は不死であるが、それは、神からそのように創造されたからではなく、ただひとり不死である方から不死性を付与され、そのようになったからである。そして、園の中央にあった命の木こそは、この事実のために定められた象徴であり保証であったように思われる。
これが命の木の持つ意味であったことは、次のような堕落物語資料の結びの言葉からも明らかである。『神である主は仰せられた。「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を
知るようになった。今、彼が、手を伸ばし、命の木からも取って食べ、永遠に生きないように」。そこで神である主は、人をエデンの園から追い出された。‥‥こうして、神は人を追放して、いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣をおかれた』」(創世記3:2 2~2 4)。もし人が生得的に不死であるのなら、命の木の必要はどこにあったのであろう」
会衆派外国伝道委員会の地域主任であったJ・H・ペッティンゲルは『普遍救済か、条件的不死か』『プラトン主義対キリスト教』などを著したが、その著『永遠の命』の中で次のような重要な指摘をしています。「永遠の苦しみの教えは、使徒信条にも、ニカイア信条にも、16世紀の二つの重要な信仰告白、即ち、その他の点では厳密なフランス改革派教会の信条と英国国教会の39箇条にも見いだされないことは注意してよい。そして、われわれは、もし、この教義がプロテスタント教会の至るところに伝わっているとすれば、それは、中世の誤りとプラトン主義の思弁的諸説から受け継いだものであると信じる。もし、初代教父たち、バルナバ、ローマのクレメンス、ヘルマス、イグナチウス、ポリュカルポス、殉教者ユスティノス、アンテオケのテオフィロス、イレナエウス、アレキサンドリアのクレメンスなどの書きものを調べてみるならば、彼らが皆、悪人の終局的滅亡という使徒の教えに忠実であることがわかる。永遠の苦しみという教義は、教会がプラトン哲学の影響に屈するまでは、教会に侵入しては来なかったのである」(66,67 ページ)。
前述のロンドンにおける会議の参加者であるシカゴ、聖ヨハネ改革監督教会牧師、A・A・フェルペス博士は、「人間は本性的に不死なのか」を論ずるにあたり、12の告発箇条を本性的不死説につきつけています。1)それは暗い歴史を持つもので、エデンにおいて、蛇により導入された。異教哲学に起源を持つもので、ユダヤ人の信仰にはみられないプラトン主義との妥協の産物であり、ローマ教会によって採用され、認証された。2)人間の創造についての聖書の説明と食い違う。3)人間の堕落についての聖書の言葉と衝突する。4)死についての聖書的教理と対立する。5)生理学上の事実と対立する。6)不死はどこでも、現在の状態にある人間存在には帰せられていない。7)不死は求めるべき祝福であり、生得的な定めではない。8)生得的不死は、悪人の運命の聖書的教えに対立する。9)復活の必要性に取ってかわる。10)審判の場面を厳粛な道化芝居にする。11)キリストの再臨の聖書的教理を覆す。12)心霊術、煉獄、普遍救済説、永遠苦痛説などの誤謬の源泉となる。
20世紀
メソジスト派の教授であるJ・A・ビート博士は『霊魂不滅への講義・序文』に次のように記しました。「これから後のページは、幾世紀もの間、聖書に教えられている聖なる真理であると、ほとんど普遍的に受け入れられてきた教えに対する抗議である。それはわたしには、言葉においても概念においても、聖書とは調和しないものであり、ギリシャ哲学にのみ由来するように思われるのである。‥‥自分の教えが神の権威に基づいていることを主張する者は、それが神から来たものであることを立証すべきである。そのような立証を、この場合、わたしは見たことがない」。ニューヨーク・ユニオン神学校教授であるW・A・ブラウン教授もその著『キリスト教的希望』の中で、「復活と来臨の教えはイスラエルから、本性的不死の教えはギリシャから来ている」と述べています。
英国国教会参事会員であるウィリアム・ヘイ・アイケトンは、ケンブリッジ大学のエリック・ルイス著『命と不死』のまえがきに、次のように永遠の責め苦について記しています。「永遠の苦痛の教えは、人間の常識と道徳感覚に照らしてみても、既に、その足場を失ってしまった。人々は、永遠にいつくしみ深く、恵みに富みたもう神がご自分の子孫(使徒1 7:28,29)を、この地上の素早く過ぎ去ったつかの間の日々の罪と弱さの故に、無限に続く永久の苦痛という刑罰にお渡しになるとは信じていないし、信じないだろう」
スーダンとインドの宣教師でもあったルイス自身は、その著『初穂のキリスト』の79ページに、彼の「条件的不死」の理解を次の4点にまとめて明確に記しています。1)人間は可死的な存在である。不死は本性的に人間のものではなく、キリストにある人に、信仰と従順を条件として与えられる神の賜物であって、その保証金は内住したもう神の霊である。そしてこの不死は復活の時に着せられるものである。2)死に際して、人の魂、肉体の組織は死んで、人はちりに帰る。3)人間の魂は、肉体から離れた人格的実体ではなく、死に際して、それを授けた神に帰るのである。そして人自身は、復活の時まで無意識の眠りに入るのである。4)復活の時に、神は、死人を命に呼び返し、ご自身の霊を再び吹き込まれる。キリストが来られる時に義人に与えられる復活のからだは、霊のからだ、栄化されたからだであり、キリストご自身の復活後のからだと同じである。命を受けるためと同様に、裁きを受けるためのよみがえりがある。命の書にその名が記されていないことがわかった人々は、火の海に投げ込まれ、そこで終局的に滅ぼされ、もみがらのように焼き尽くされる。その苦しみがどの位続くか、神のみがご存知であるが、その裁きはおのおのの行いによるのである。これが「第二の死」であり、そこからの復活はもはやない。
カンタベリー大主教ウィリアム・テンプルは、その著『自然、人間、神』の中で、次のように述べています。「死後の命の教理を知ろうとすれば、まずそれに付着していて、非常な速さで、この教理を不明瞭にし始めた付着物から、古典的な聖書の信頼すべき教えをほどきだすことを手がけなければならい」「人間は本性的に、また、権利として、不死を持つのでなくて、不死を持ちえるのである。もし、神の定められた条件に従って、神からそれを受けるならば、死人からの復活と永遠の命が差し出されているのだ」「しかし、失われた者の終わりのない苦しみについて述べている多くの箇所があるだろうか。否。わたしの知る限り、そういう箇所は全くない」「結局、終わりのない苦しみではないが、絶滅こそが、永遠の刑罰なのである」(460,472,464 ページ)。
また彼はその著『キリスト教信仰と人生』の中で、本性的不死と永遠の責め苦について次のように記しています。「一つのことをわれわれは確信を持って言うことができる。もし人が、個々の魂の本性的不滅という、ギリシャ的、非聖書的概念を受け入れず、そのような先入観を持って聖書を読むことをしなかったならば、きっと聖書から、永遠の苦しみではなく、絶滅という教えを引き出していたであろう。永遠と呼ばれているのは、火であって、その中に投げ込まれた命ではない」「終わることのない苦しみの場所と考えられている地獄にある人たちがいる時に、他の人たちにとって天国というようなものがいったいあり得るだろうか。そのように罪に定められた魂は、どの魂も、この地上にあって、ある母の子として生まれたのである。自分の子供がそのような地獄にいるというのに、その母にとって、パラダイスは、パラダイスであり得るはずはないのである」(81,454 ページ)。
フィラデルフィア・ルーテル神学校組織神学教授のマーチン・ハイネッケン博士は『キリスト教の基礎教理』の中で、人間を一つの統一体として、次のように述べています。「創造に関する聖書の説明では、神が人をちりと土で造られ、その鼻に息を吹き入れられると、人は生きたものとなったと語っている。これは、普通、神がまず、真の人格である一つの魂を造り、それから、これに、土のちりで造られたこの世の住み家を備えられた、という意味であると解釈されている。しかし、これは、誤った二元論である。‥‥人間は一つの統一体として考えられなければならない」(3 6 ページ)。「われわれは、一つの統一した存在、人格を扱っているのであって、肉体と呼ぶ家に住んでいて、魂と呼ばれるあるものを扱っているのではない。その場合、肉体は、あたかも魂が使用している道具であるかのように考えられ、本当に人格の一部分であるとは、考えられていないのである」(3 8 ページ)。
英国聖レオナルド・オン・シー教会のデイヴィッド・デイヴィーズ牧師はその著『悔い改めを避ける技術』の中で、ハデスとゲヘナについて次のように説明しています。「魂の不死は聖書的教理ではなく、ギリシャ哲学である。魂についての聖書的教理は復活である。人間は、造られたものである。神は人を無から創造された。しかし、人は、神に対する反逆によって、自ら朽つべきものとしたのである。魂の不死の思想は、魂がぼんやりした存在として生きている、霊気漂う暗い地下界、ハデス(Hades)の来世観念をもつギリシャ哲学に由来する。
われわれは、ギリシャ語ハデスを英語のHell(地獄)と訳し、そこを痛みと苦しみの場所と考えている。しかしギリシャ語のハデスは苦しみの場所ではない。苦しみの場所としてのHell(地獄)は、むしろ、ヘブル語のゲヘナから出てきた観念であって、感情も苦しみも剥奪された、低く、暗い場所である。ギリシャ語のハデスからではない。それは、人間は物質と霊の複合体であって、死がそれらを引き離し、魂を、物質という牢獄から切り離し、解放して、独立した存在にするのだというギリシャ的な考えの所産なのである。人間についてのヘブル的考え方は、全く異なったものである。聖書にあっては、人間は、「生命あるいは、精神(Spirit)の統一体とみなされており、それは魂、肉体の両様に自らを表すものである。人は自らを朽つべきものとしたのであって、魂も、その結果、可死性をもつ者となったのである。人間は、物質と精神という二つの異なった実体の複合体ではなく、物質としても、魂としても働く、精神の統一体である。それは可死性をもった統一体である」(84,85 ページ)
トリニティ大学宗教学教授オーウェン博士は、その著『肉体と魂』の中で、教会教父たちが生み出した人間学は、ギリシャ思想との折衷であって聖書的でない点を指摘し、次のように述べています。「『宗教的』人間学は西洋思想に関する限り、その起源においてギリシャ的であり、聖書的ではない。それはまた、ヒンズー教や仏教のような東洋の宗教一般の典型でもある。これが起こったのは、われわれが見たように、教父の時代、及び中世であった。そして現代カトリシズムとプロテスタンティズムはこの初期の誤りを永続的なものにしようとする傾向にあるのである」(163 ページ)。
ハンマ神学校ルター派神学教授のカントーネン博士は、『キリスト教的希望』を著しましたが、その中で魂の生得的不死と聖書の復活信仰の違いについて次のように述べています。「プラトン以来、魂と肉体とはっきり区別することは西洋思想の特徴となっていた。肉体は物質で、魂は精神で構成されていると考えられた。肉体は牢獄であって、魂はそこから死に際して解放され、魂に固有の非物質的存在として自らを全うする。その非物質的、精神的本性の故に、魂は朽ちざるものと考えられてきた。このようにして、死後の生命の問題は、魂の不死、死を拒み得る能力を証明するという問題になってしまい、肉体はあまり重要なものとはされなくなった。このような思考形式は聖書とは全く異質なものである。聖書に真実あり、ギリシャ思想を断固として拒むならば、キリスト教の信条は、『われは魂の不死を信ず』ではなく、『われは肉体の復活を信ず』となるはずである。‥‥魂は、人間の分離した一部分としてそれ自身の固有の本質を持つようなものではない」(28,29 ページ)。
「キリスト教信仰は人格の不死については何も知らない。それは死の否定を意味し、死を神の裁きと認めないものである。キリスト教信仰が知っているのは、神の力による死の事実からの覚醒のみである。ただ呼び覚まされるということによってのみ、即ち復活によってだけ、死後の存在はあるのである。魂の不死というものはなく、人間全体、肉体と魂の、死からの復活があるだけである。聖書が認める唯一の不死は、キリストにある神との人格的関係の中にある不死である」(3 3 ページ)。
「聖書には、魂は肉体と同様、崩壊し得るものであるという見方を支持する重要な相当多くの箇所がある。この証拠は、魂の生得的不死というギリシャ的観念が聖書の教えに取ってかわったために不明瞭にされてきてしまっている。‥‥聖書教理には争う余地のない二つの事実がある。それは、死の事実と、キリストの再臨の時の死からの復活という事実である‥‥もし死が天国への入国を意味するなら、復活と裁きはその意味を失ってしまう」(36,37 ページ)。
「魂は肉体から離れては存在することはない。人間の全体、肉体と魂が死ぬのであり、人間の全体、肉体と魂が最後の日によみがえるのである。死に際しては人は直接に最後の復活と裁きにおもむく。待つという期間はない。なぜなら、待つということはその時間があるはずではあるが、死後にはもはや時間は何の意味ももたないからである。われわれはこの世のものの見方で死を眠りというが、それならルターと共に、『深い眠りに陥っていて人にとっては、何百年という時の経過も一瞬間にしかすぎないのだ』と言おう。われわれはまた、死んでいった信者は、その戦いと待望の生涯を終えて、最後の目的地に到達したという意味では、彼らは主と共にいるのだと言うことさえできる」(96,97 ページ)。
このように多くのキリスト教会の伝統な霊魂理解になってしまった魂の生得的不死の教義は、聖書に基づくものではなく、異教的な思想に基づくもので、キリスト教独自の再臨における審判、復活の信仰と相容れないものであることは明らかなのではないでしょうか。
さらに近年、条件的不死のみならず、永遠の地獄の火の理解に関しても複数の福音派の神学者、指導者が福音を拒む者の霊魂消滅を受け入れる方向に傾きつつある様子が伺えます。福音派の代表的指導者であるジョン・R・ストットもその一人です。彼は自分の読者に対してこの地獄の問題を扱うに当たって、福音派の伝統と共同体の一致を尊重したいが故に「非常な躊躇と重い気持ち」で書いていると述べ、次のように記しています。「感情的に、私は『悔い改めない者たちが経験する永遠の、意識のある苦しみ』というこの思想に耐えられないし、人々が自分の感情を麻痺させ、あるいは緊張のあまり不能になることなしに、いかにしてその苦しみの中で生きることができるのか理解できない。しかし、私たちの感情は真理に対しては変動する、当てにならない指針であって、真理を決定することにおいては最高権威の座に高められてはならないものである。ひとりの献身した福音派の人間としての私の問題は、私の心が私に何を告げているかではなく、神の言葉が何を語っているかであり、またそうでなければならない。この問題に答えるためには、改めて聖書の題材を調べ直し、聖書が霊魂消滅の方向を示している可能性と『永遠の、意識のある苦しみ』が聖書の最高権威に従属すべき伝承である可能性とに対して(私たちの心と)理性を開く必要がある」
その理由としてストットは4つの議論を挙げています。第1は聖書の言語です。魂の終局的破滅を意味する言葉としてしばしばギリシャ語の動詞のアポルミ(滅ぼす)や、名詞のアポレイア(滅亡)が用いられますが、他動詞としてそれは「殺す」を意味します。キリストはマタイ10章28節(ヤコブ4:1 2 参照)において「からだを殺しても、たましいを殺せないもの人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい」と言われました。もし殺すということが命のからだを奪うことであるとすれば、ゲヘナにおいてそれはからだと精神的命の消失、すなわち存在の消滅を意味すると考えられます。
2番目の議論は聖書がゲヘナの比喩として用いている火についてです。火の主たる機能は、世界中の火葬に携わる人々が証言するように痛みを与えることではなく、焼き尽くすことです。ですからバプテスマのヨハネは裁き主を「消えない火で焼き尽くされる」方(マタイ3:1 2)として描いています。火が、消えない永遠の火といわれているのであって、投げ入れられたものがいつまでも滅びず永遠に存在するというのは奇妙なことです。投げ入れられたものは永遠に苦しめられるのではなく、永遠に消滅すると考えるのが妥当でしょう。
霊魂消滅説に有利と思われる3番目の議論は、聖書的正義に基づくものです。その基本的な理解は、神はそれぞれの行いに応じて人を裁かれる(黙示録2 0:1 2)、すなわち課せられる刑罰はなされた罪につり合ったものであるということです。ストットは意識を伴った永遠に続く苦痛が、果たして地上での束の間の罪と見合ったものであり、聖書の神の正義の啓示と両立するものか疑問だとしています。永遠の滅亡と永遠に罰し続けるということは別なのです。
4番目の議論は、悔い改めない者が地獄に永久に存在するということと、神の悪に対する完全な勝利の約束を調和させることが困難であるということです。
そういうわけで、ストットは聖書的解釈とされてきた霊魂不滅説という福音派の長年の伝統と、世界的な福音派構成員の一致に配慮しつつも、この問題は不問に付すにはあまりに重要な問題であり、悪人の最終的な消滅説を、少なくとも永遠の意識を伴う苦痛に対する一つの正統な聖書に基づく代案として受け入れるように提案しています(『福音派の本質:自由主義と福音派の対話』312~320 ページ)。
クラーク・ピノックも条件的不死説と霊魂消滅説を採用している主要な福音派の学者です。彼は次のように記しています。「聖書は、悔い改めない悪人の運命について語るとき、死と破滅、滅びと消滅という言葉を用いている。聖書は、投げ込まれるものは何でも焼き尽くしてしまう火の比喩を用いている。……ここから受ける印象としては、『永遠の刑罰』が終わりのない苦しみという経験よりも、むしろその結果をくつがえすことのできない神の裁きを指しているということである。……では、地獄という伝統的な考えによって代表される聖書の誤った解釈は何によって説明されるのだろうか。……このことを説明するのは、ほとんど初めから終末論に関するキリスト教の考え方を支配してきたギリシャ的な人間に関する考え方である。それは霊魂の不滅性を信じるもので、もし受け入れられるなら必然的に解釈をゆがめてしまうはずのものである。地獄の本質に関する伝統的な考え方の真の基礎は、悪人の滅びに関する聖書の言葉にではなく、むしろ聖句に読み込まれた非聖書的な人間学にあると、私は信じる。……もし霊魂が生まれつき不滅であるとするなら、それらは必然的にどこかで意識的な永遠を過ごさねばならないし、もし火の『ゲヘナ』があるのなら、それらは焦熱地獄の中で生きたまま意識的な永遠を過ごさねばならないことになる。……」
「もし神が人間を永遠にわたって苦しめられるとすれば、神の慈愛とは何を意味するのであろうか。……地獄の本質に関する伝統的な考え方は福音に啓示された神の品性と一致しない。……地獄の本質に関する伝統的な教理に対しては、強い道徳的嫌悪感がある。永遠の拷問は道徳的見地から耐えられるものではない。なぜなら、それは神を血に飢えた人非人のように描いているからである。彼が管理している永遠のアウシュヴィッツでは、敵は死ぬことさえ許されないのである。人はそのような神を愛することができるであろうか。そのような神を恐れることはあっても、愛し、敬うことはできないであろう。私たちはこれほど非情な神に似る者になりたいと思うであろうか。永遠の意識のある苦しみという考えは悪の問題をとんでもない高みにまで引き上げる。アントニー・フリューはいみじくも次のように反論した。「もしクリスチャンが、神が一部の人間を永遠に地獄で苦しめるという明白な意図を持って人間を創造されたと本当に信じているなら、彼らはキリスト教を擁護する努力を捨て去ったほうがよい、と。‥‥」
(『地獄についての4つの見解』pp.144,147~151,157,165~166.Zondervan)
F・F・ブルースも1989年にジョン・ストットに対し、「確かに霊魂消滅説は、関連する新約聖書の聖句から受け入れることができる解釈である」と書いています。同じようにロバート・E・オルソンも「霊魂消滅説は福音の中心に打撃を与えるものでもなければ、いかなる主たるキリスト教信仰を否定するものでもない。さらに重要なことは、地獄の性質に関する意見の相違の故に、一部の根本主義者の厳しい非難によって、同じようにイエス・キリストの福音を信じる信仰者を受け入れることを思いとどまらせてはならない」と述べています(『キリスト教のモザイク:2000 年間の一致と多様性』239 ページ)。
以上の追加資料を通して、SDA教会が信じている条件的不死と、悔い改めない者の最終的な消滅説の妥当性を、聖書とプロテスタント宗教改革者をはじめ教父以来の教派を超えた教会指導者、聖書学者の解釈から見てきました。これらを通してこの教理が福音派の聖書学者たちも認めているように、決して福音に反する異端的なものではなく、むしろ聖書の基本的な教えである霊とからだの統一体としての人間観、死後の状態、再臨における復活、罪とその結果である死の影もない新しい世界の完成と調和した福音的な教理であると理解していただけたと信じるものです。
|